衆聖人の主日 2020

誦読箇所:マトフェイ伝10:32-33,10:37-38,19:27-30

父と子と聖神の御名によりて

本日の聖福音経の誦読箇所をみてみましょう。

1「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」

1「わたしよりも父または毋を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」

1「ペテロがイエスに答えて言った。ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか。イエスは彼らに言われた。よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、毋、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」

ここでは、ハリストスをうけ認めることによってもたらされる特別な愛およびその愛の確かな報いのことについて語られています。

ハリストスは、ここで、自分につきしたがってくる人々が、ひどい迫害と残酷な苦難にあうであろうことを予測して、人々におそれることのない心がまえをもつことを、まずうながしています。

また、いっぽうで、やがて天国で、わたしたちに成就されるであろう、よろこばしき約束について伝えるとともに、他方で、いまは様々なおそれに向き合って、立ち向かうように励ましつつ、ハリストスが人々を救うために、この世にきた、神のまことの子であることをも伝えています。

それゆえ、ここでいう「十字架」とは、ハリストスのためにうけるであろう、侮辱、迫害などのさまざまな苦難を示し、それを忍び、最終的には致命することをも、うけいれることを意味しています。

そして、「世が改まって」とは、この世の終わりにあるであろう死者の復活の事実であり、このことばをもって、使徒たちおよびすべての真にハリストスに従う者が、来世においてうけるであろう、尊き誉れと栄光をさししめしていると正教会は伝統的に教えてきました。

また、ここで「イスラエルの十二の部族」とは、イスラエルの十二の子より生まれた、イアコフの生んだ子の名によるイウデヤ人のことであり、とくに、かれらは神を知るという点においては、まことに先んじているとされ、異邦人はそれに及ばない存在として、いつもあとを歩む者たちとされていました。

そこで、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」とは、どういうことなのでしょうか。それは、この世において、富と誉れをもって先んじている者は、来世においては、かえってうしろをあゆむこととなり、今は、富と誉れにおいてうしろをあゆむ者は、来世において、先をあゆむ者となるであろうことをあげて、私たちが天にのぼる条件として、謙遜、へりくだりの道を示しています。

しかし、わたしたちの願いが、名誉やおごりをもって、その目的となるこの世の価値に目が向けられたときには、その場で神によって、その者はしりぞけられることになることになるのです。

また、ハリストスは、受難と、十字架上の死をもって、その栄光の座につくことになる。また、それゆえに、彼ら使徒たち、および私たちハリスティアニンも、永遠の生命と栄光の国にはいることも預言しています。

そして、ハリストスに従う者は、ただこころのなかで信じているのみではなく、ことばにあらわしてハリストスをうけ認めることをも求めています。

そして、そのうけ認めた、まことのことわり、すなわち来世において永遠のいのちを得るという真理に服すること、また愛においては、隣人を愛せよというおしえを重んじるかたわらで、「わたし(ハリストス)よりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言われているのは、ひとえに目先の愛におぼれてはならないことをいましめています。

そして、わたしたちのめざすことは、まさしく神に肖(に)ることです。わたしたちが、神にふさわしい、より完全なものとなるためには、神との交わりによるしか、そのてだてはありません。そういう交わりを可能にするわたしたちの側のありかたこそ、神をうけいれるにふさわしいこころのありかたは、やはり謙遜にほかなりません。

ところで、本日は、五旬祭を迎えて、聖神の光にみたされてから、一週間を経たよき日であり、衆聖人の主日とよばれる祭日にあたります。

衆聖人とは、正教会では、衆義人、天使の品位、前駆授洗者、使徒、預言者、致命者、成聖者、修斎者、克肖者、神品致命者、表信者、神を愛する女たちのことをさしています。

正教会が、この日にかれらを記憶する意味の一つは、衆聖人たちがあったひどい迫害と残酷な苦難のように、だれしも不幸にあったときには、こころを広くたもち、かつ、主にすべてをゆだねて、ひたすらすくいをたのむこと、主よりつかわされるすべてのこころみを決してうらむことなく、たえること。このことにつとめて、みずからの命を全うした聖人たちを記憶して、わたしたちの糧とするためでもあります。

これより、教会では、もっとも大切な領聖という神との交わりの時をむかえます。聖体礼儀の天主経のすぐあとにあるお祈りに、「聖なる物は聖なる人(々)に」という一節があります。これは、「聖なる物、すなわちご聖体は、聖なる物にふさわしい人々に与えられる」、「わたしを受けいれる」にふさわしい人々に与えられるという意味であることをあらためて心においておかねばなりません。

そして、真に聖なるものはひとり、神・父の光栄をあらわす主イイスス・ハリストスのみであることを祈りのことばとして返して、いまわたしたちは領聖の時を待っているのです。

主よ光榮は爾に歸す。

2020年6月14日(日)

東京復活大聖堂教会

司祭パワェル中西裕一