説教

顕栄祭(主の変容祭)

本日は主の顕栄祭、または主の変容祭と呼ばれる祭日です。
祭日のイコンを見ますと、モイセイとイリヤがハリストスの左右に立っています。モイセイは律法をあらわし、イリヤは預言者の代表で、共に旧約聖書をあらわしています。主イイススが二人と話しているのは、律法と預言の成就をあらわしています。

そして地上には、この変容の場面に遭遇したペトルとイアコフとイオアンの三人が、驚いて畏れおののいている姿が描かれています。本日の使徒経は、ペトル後書の第一章でしたが、この箇所はまさに主の変容を目撃したペトル本人が振り返って書いたものであります。

1『わたしたちの主イイスス・ハリストスの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話をしているのではありません。わたしたちは、ハリストスの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」というような声があって、主イイススは父である神から、誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは聖なる山にイイススといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです(ペトル後書1:16~18)』

ハリストスはそれまで、弟子たちと共に食事をし、共に生活をしていました。その方が突然山の上で真っ白に輝いて、いわば変貌したわけですから、弟子たちはさぞかし動転したことでしょう。ペトルの「主よ、あなたのために小屋を建てましょう」という言葉は、つい取り乱して発した訳の分からない言葉だと言えますが、ここに弟子たちの驚きがよくあらわれています。

しかし、何故あえてこの変容の輝きを弟子たちに示したのでしょうか。主はご自身の威光によって人々が怯えひれ伏し、その戒めに服従することを望んだのでしょうか。

そうではなく、むしろ主はご自身の変容の輝きによって、人々をこの光の中へ導き、わたしたち自身を光を帯びる者へ変容させる(変えられる)ことを望んだのであります。簡単に言えばご自身の復活の姿を、あらかじめ弟子たちに見せたわけです。この出来事は、主は人々を罪と死の状態、罪の闇からご自分の光の中へと救い出そうとされていることを表しているのです。

しかし、「わたしたち自身が神の光におびたものに変容する(変えられる)」と言われると、戸惑いしり込みするかもしれません。

ハリストスは、ファリサイ人や律法学者とのやりとりを通して分かるように、恵みや救いは特定の人々や特権的な人々にだけ与えられるものではなく、求めるすべての人に与えられるもので、一人でも多くの人々にそれをもたらすために身をとり人となられました。

ハリストスが一人でも多くの人々に与えたいという救い、それは領聖を通して得られます。主はご自分の体である聖体聖血に、みんなが近づき分かち合うことを望まれています。主のほうからわたしたちに近づいて下さり、こんにち教会でご聖体を分かち合うことで、わたしたちが神様の恵みを受け取れる道を開いて下さったのです。聖体礼儀の中で領聖の後に「すでに真の光を見、天の聖神を受け」と歌っていることに注目しましょう。ここで言う真の光とはまさにハリストスが変容したときの光に通じるのであります。

ローマの問答者グリゴリイはこう言います。「主は私たちが本来求めるべきものを自ら進んで差し出して下さった。願っても叶えられる見込みのないものを、主は願ってもいないのに与えて下さった」

これは私たちが領聖することについて語ったものでありますが、このような聖人の言葉を聞きますと、この神様の気前のいい贈り物に対して見向きをする人がまだ少ないことが残念です。一人でも多くの人が救いに与れるように、祈り努力してゆく教会を目指しましょう。

2020年8月19日(日)

東京復活大聖堂教会 主任司祭

司祭ミハイル対中秀行

五旬祭後 第10主日

誦読箇所:マトフェイ伝 17:14-23

自分の置かれた状況を何とか変えたいけれども、変えることは出来ないと感じることが、人生の中には何度もあると思います。そのような時、私たちは不可能を可能にしてくださる方に助けを求める必要があります。

てんかんに苦しんでいる息子を癒してほしいという人がイイススのところへやってきました。はじめは弟子たちにお願いしたけれども治すことが出来なかったとのことでした。そしてイイススが悪霊をお叱りになると、悪霊は出て行きました。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」という弟子たちに対してイイススは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって「ここからあそこに移れ」と命じても、その通りになる。あなたがたに出来ないことは何もない。しかしこの種のものは祈りと斎によらなければ出て行かない。」と言われました。

からし種は大変小さな粒です。イイススは、その生涯に於いて数々の奇跡を起こされました。しかし、それは人々を驚かせるためでなく、常に神の国を伝え、人々を救いに導くために行われたのであり、山を動かすこと自体は何の役にも立ちません。

からし種のたとえからは、イイススが程々の信仰心ではなく、本物の信仰を求めておられることが分かります。真の信仰とは自分の力ではなく、ただ神様を信頼し、ゆだねることであります。疑いや迷いが出てくるなら、神様に対する私たちの信頼はまだ不十分ということでしょう。私たちの信仰は弱く、自分の力や人間的な考え方のほうについ傾いてしまいます。

一方、神を全面的に信頼する人は、神ご自身が働いて下さるよう全てをお任せし、自分のなすべきことを粛々と行います。神様に不可能なことはないからです。

イイススは、弟子たちが神様に対し完全に信頼を置くことを望んでおられました。その時、神様はご自身の力を顕されます。山を動かす程の信仰、それは特別知性や何かに優れた人だけのものではありません。神様に全き信頼を置くことが出来るなら、信者の誰もが持つことが出来る、そうイイススは説いています。

イイススがこの言葉を語られたのは、弟子たちを伝道に派遣されたときだと言われています。現代の私たちにあてはめてみましょう。日本人の多くは宗教的無関心と言われていますが、歴史的には仏教や神道の習慣の方により親しんでいますので、ハリストスを信ずる自分たちは小さな群れだと感じ、普段の生活において不安を感じることもあると思います。「ハリストスの福音を伝えましょう、周りの人に伝道しましょう」などと言われても勇気を持って伝えるどころか「無理だ」と考えるかもしれません。そのような時こそ、からし種一粒の信仰があるなら「世の中の無関心という山」を動かすことが出来る、とイイススは励ましているのです。信仰を持っていれば、イイススに従う人々に不可能はありません。

先程からし種は大変小さな粒だと記しましたが、成長すると3~4m程の木になります。

主は、からし種一粒の信仰さえない私たちに尚も働きかけてくださいます。足りない信仰を増し加えてくださるよう、未熟な信仰が成熟したものになるよう、主に願い求めて参りましょう。

2020年8月16日(日)

東京復活大聖堂教会 主任司祭

司祭ミハイル対中秀行

五旬祭後 第9主日

誦読箇所:マトフェイ伝 14:22-34

父と子と聖神の御名によりて

本日の聖福音経の誦読箇所をみてみましょう。

1「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。それから、彼らは海を渡ってゲネサレの地に着いた。」

ここでは、救主イイスス・ハリストスが、奇蹟をもって、海の上を歩んだことがしるされている、よく知られた箇所です。正教会では、ここで伝統的に何を伝えてきているでしょうか。

まず、私たちは、この場にいた使徒たちとともに、ハリストスがまことの神の子であることを、信じて、かつ受けみとめることが大切であること。

そして、ハリストスは、いつ、いかなるところでも、わたしたちがわざ災禍にみまわれたとき、わたしたち信ずる者をみすてることはないので希望を失わぬこと。

また、災禍にみまわれたとしても、それに向き合ってこそ、そこから大いなる幸いへと、やがてはつながっていくことを信じることが、大切であることを教えてきました。

さらに、人はその立場に応じて、さまざまな役割を担って生きていますが、まず、わたしたちが、かしらたる役目を担ったばあい、みずからに従う者たちの安全をつねにこころに留めおきつつ、役目を果たしていくべきであること。

使徒たち、すなわち弟子たる立場にある者は、かしらたる者に、格別な愛と尊敬のこころをいだき、従うことが大切であること。

また、災禍にみまわれたときは、神のちからをたのんで、みずからを勇気づけることが大切であることも教えています。

さらに、ハリスティアニンみずからも、その確固たる信仰の力によって、大いなる「奇跡」をおこしうることも正教会では教えてきました。

そして、その信仰の軸となるものは、すなわち、ハリストスがみずからの意志によって、そのからだを「死」にひきわたして、そのことをもって私たちが救われ、あがなわれたこと、そこにおいて、天の神・父の旨を成就したこと、このことを、わたしたちが疑うことなく、信仰の道をまっとうすることにおいて、はじめておおきな仕事を成しとげることができることをここでは教えています。

すなわち、私たちが、大いなる覚悟をもって、なにごとか大きなおこないを、くわだてようとするときは、まずじぶんのちからを、かたく信じて、ためらいをすてて、勇気をふるって身を投じて試す必要があるということを、ここでは教えています。ハリストスが、使徒たちの信仰について嘆いたのはまさにそれがたりなかったからだったのです。

しかしながら、わたしたちは、このようなことを、頭のなかで、理屈として理解をしていながらも、なかなか、理想とする方向へすすむことができないこともあるでしょう。

そこで、かつて聖山アトスに滞在したときのことに触れたいと思います。それは、半年の滞在期限がせまり、修道院をはなれることになったある日のことでした。そのとき私は、そこでの生活にようやく慣れた頃だったのですが、これで世俗の生活に戻れるという想いもいだいていたことは否定しません。

ある日、親しくなった修道士に別れを告げていたとき、彼はいつになく悲しそうな目つきで私をみつめながら、こうつぶやくように言ったのです。

1「パーテル・パヴロス、君はほんとうに帰るのだね。君はこれから、とても大変な世界(世俗)にもどっていくのだね。いまそのことを思って、君がかわいそうに思えて、悲しくてしかたがないよ。」と、ほんとうに涙を滲ませながら語って抱き寄せてくれたのです。しかし、その修道士は、私がとりわけ大きな存在(すなわち生神女)の庇護(おおい)のもとにあることにも気づかせてくれました。

そして「おおいなる生神女の庇護のもとに、パーテル・パヴロス、君はここでみたこと、どのようなことでもいいから、できるかぎり、そしてとりわけ神のアガピ(愛)の心について、日本にあまねく伝えなさい。それが使徒としての(私の洗礼名である使徒パウロの功績にならう)君の役目だ」と言って励ましてくれました。

そして、修道院を離れる最後の日、修道士たちが、かけてくれた言葉、「もう、心配はいらない。これからは「生神女マリアは、いつもあなたと共に(パナギヤ・マジ・サス)あるのだから」、でした。このことばを、日本正教会のことばで表現すれば、「至聖生神女は爾と偕に」という表現になるでしょうか。アトスの修道士たちは別れ際にこの言葉をかけてくれます。

私は、このときから、生神女の存在、とりわけ、そのとりなし(轉達)により、もたらされる神の愛が、様々な困難の前に私に力と勇気を与えてくれるものであることを感じました。

私の正教徒としてのあゆみは浅いのですが、そのなかで、生神女を特別な存在として考えるようになったのも、まさにこれを期にしてからです。この時以来、こころしずかに送ることができた修道院での、滞在の日々を大きな恵みとして、とらえることができ、これからの日々へと、希望をつなげていける勇気を、私に与えてくれたように思います。

主よ光榮は爾に歸す。

2020年8月9日(日)1

東京復活大聖堂教会

司祭パワェル中西裕一

五旬祭後 第8主日

誦読箇所:マトフェイ14:14-22, コリンフ前1:10-18

1「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい[1]」。そうは言うものの、自分の所属する教会を愛さない者などいないがゆえに、信徒たちの間には時折主張のぶつかり合いが起こります。しかしながら、人それぞれの個性は神様によって備えられた尊重すべきものである、という認識をいかなる場合であっても忘れてはなりません。すなわち、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています[2]」。だからこそ、細かな点で皆の考えが一致しにくいのにも無理はないはず。

けれども、私たちは「ハリストスに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです[3]」。従って、多様な意見を述べる者たちが皆で力を合わせ、より完全な共同体を構築しようと絶えず努力するのが、教会の本来あるべき姿ではないでしょうか。本日の福音では、五つのパンと二匹の魚によって五千人余りを満腹になさった主の奇跡が伝えられています。この出来事はまさに、愛すべき個性を持ちながらも、それまでは牧者なくしてバラバラであった信徒たちを主の御名において一つの民とした奇跡、に他なりません。

イイススの評判を耳にした方々の町の住民は、教えを乞うために飢えをものともせず、あるいは住み慣れた町を発って、人里離れた場所にまで追いかけて来ました。主は彼らのこうしたひたむきな姿勢に感銘を受けられたからこそ、迷惑そうな表情ひとつ浮かべることなく、人々を慈しみ、病人には癒しを施されたのです。そうするうちに日没が差し迫り、彼らの食事を心配した弟子たちは群衆を解散させるように提案します。ところが、主は「行かせることはない」とお答えになりました。そして、手元にあった僅かな食料を受け取ると、天の神父に祈りを捧げてパンを裂き、たちまち全員の空腹を満たされたのです。そればかりか、さらに人数が増えたとしてもなお余りが出るほどでした[4]

さて、この奇跡を通して私たちが注目すべき事柄は、単に主イイススが人々を飽食させた、という結果そのものではありません。そうではなく、信徒ならば誰もが体験したことのある「領聖」との関連性に目を向けましょう。この時と同様に、限られた個数のパンを用いて行われる日々の「聖体礼儀」。身体的な空腹をしのぐのに、ひとかけらの食事では物足りないことなど皆さんもご存じです。しかしながら、この一片きりのご聖体こそが、精神的な面においては究極の癒しに繋がります。

かつてソロモンは「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい[5]」と述べました。このままでは少々厳しい言い回しですが、聖使徒パワェルはこれをより丁寧な表現で言い換えているように思われます。曰く「ハリストスの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい[6]」。つまり、当時ハリストスに付き従った五千人は、主の食卓を囲むことで一つの民となる代えがたい資格が得られたのです。

現代に生きる私たちもまた、「皆(中略)洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました[7]」。すると、ひと度神様と共に歩む決意を表明した者同士は、心がいくら疎遠になっても相手が教会から公然と退けられない限り「同じ釜の飯を食う」仲間であることに変わりありません。まさに「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体(中略)皆が一つのパンを分けて食べるからです[8]」。

このパンの効能について、ハリストスは自ら「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない[9]」と仰っています。この言葉などに基づき、主が生前行われた機密制定の晩餐に至っては、その後使徒たちに受け継がれ、神聖神に導かれた後代の聖師父たちの働きによって、次第に洗練された儀礼へと変容を遂げました。とはいえ、その趣旨は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである[10]」という言葉に根差すものとして、当初から「ご聖体の分かち合い」に主眼が置かれ続けて来た点は今日まで変わりません。

ところが、実際上は私たちが一堂に会せば、居合わせていない兄弟姉妹の悪口を始めたり、あるいは彼らのうちで不和を増幅させたりするのが世の常です。これでは、いくら私たちが自発的に主の食卓に着こうとしても、「背信のパンを食べ、不法の酒を飲む[11]」忌まわしき振る舞いと言えましょう。ともすれば、ご聖体は私たちにとって「靈體の醫[12]」ではなく、「審案或は定罪[13]」として神様の裁きを受ける引き金ともなりかねません。だからこそ、聖変化を済ませた私たちは「口を一にし心を一にして[14]」神様を「讚榮讚頌[15]」できるように願い求めるのです。

これは何も、今を生きる信徒のみへの勧めには止まりません。地上で行われる聖体礼儀は天上の教会と密接に結び付き、天使や諸聖人をはじめ今は亡き信徒たちもが集う機会です。「死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者もなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もない[16]」という不安に対する安らぎすらもこの場には揃っています。ゆえに、私たちの信仰は先人たちの積み重ねの上に成り立つことを理解し、彼らと異口同音に神様の讃美を唱える必要もあるのです。

こうして今も昔も「人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた[17]」わけですが、金口イオアンによればそもそも「ハリストスの弟子でない者が主の晩餐に与ることは許されません[18]」。それでも、「神を畏るる心と信とを以て近づき來れ[19]」という言葉を踏まえてご聖体に近づくならば、神様は手放しに喜んで彼らを招き入れ、この繰り返しを通じてその信仰は次第に固められるでしょう。

すなわち、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます[20]」。よって、使徒たちに先立って町へと遣わされた、かつての五千人と同様「弟子たちと一緒に過越の食事[21]」をなさる神様は、私たち一人ひとりに対しても各自の霊的な成長を望まれるほか、「人間をとる漁師[22]」としての役割を期待してやみません。

以上のことから、「ハリストスがわたしを遣わされたのは(中略)福音を告げ知らせるため[23]」である点は明らかです。ならば、自らの善行を通して神様との交わりから得られる豊かな精神性を、まだその偉大さを知らずに過ごす人々にも伝えなければなりません。いかなる時も、領聖によって「ハリストスの平和」を共有する私たちは、主において「一つの体」であることを胸に刻みつつ、務めを全うしてまいりましょう。

2020年8月2日(日)1

東京復活大聖堂教会

伝教者ソロモン川島 大

[1] コリンフ前1:10

[2] ロマ12:6

[3] 〃12:5

[4] マトフェイ14:13-21

[5] 箴言17:1

[6] コロサイ3:15

[7] コリンフ前10:2-4

[8] 〃10:17

[9] イオアン6:35

[10] マトフェイ18:20

[11] 箴言4:17

[12]『奉事経』p.179.

[13] 同上。

[14]『奉事経』p.165.

[15] 同上。

[16] イエレミヤ16:7

[17] 聖詠77:25

[18]「聖金口イオアン教訓 上」p.30, A.ネウスキー編(1901)『聖神父教訓鈔』堀江 復訳, 正教会編集局.

[19]『奉事経』p.184.

[20] コリンフ後9:10

[21] マトフェイ26:18

[22] 〃4:19

[23] コリンフ前1:17

五旬祭後 第2主日

誦読箇所:マトフェイ4:18-23

父と子と聖神の名によりて

ガリラヤ湖の岸辺で四人の漁師が仕事をしていると、通りかかったイイススに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられました。そして四人のうちペトルとアンドレイの兄弟は、網をその場に置いて主イイススに従いました。

現代に生きる私たちは、このような出来事に戸惑いを覚えます。仕事や道具や家を残して、また、培った人脈を置いて、すぐに従うなどということが出来るでしょうか。ましてや、私たちは幼い頃から「知らない人についていってはいけません」と言われて育っています。この兄弟は何のためらいもなく素直に網を置いてイイススの呼びかけに応じました。

私たちも彼らと同じように主に呼ばれているのですが、王様の婚宴(マトフェイ22:1~)に呼ばれた人々のように「若いから」「忙しいから」「年を取っているから」「そんな立派な人間ではないので」と理由をつけて、なかなか招きに応じようとはしません。しかし、主は単に「私について来なさい」とおっしゃったのであって「~でなければ」という条件をつけてはいません。

旧約聖書創世記十二章には、アブラハムが突然主から呼ばれる場面があります。

主は彼に「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:1~2)と告げ、アブラハムはその言葉に従ってハランの地を出発しました。そして約束の地、カナンを目指したのです。それはただ神様がそうおっしゃったというだけで、目に見える保証も手当ても何もありません。それでもなお、彼は神を信じて呼びかけに応じ行動した。それが、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以です。

ハリストスは「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マトフェイ10:38)ともおっしゃっています。主に従おうと思いながらも自分を捨てきれない私たちは、心の中に葛藤を生じますが、その葛藤を乗り越えて主に従う、あるいは従おうとする、その歩みが私たちにとっての「網を置いていく」行為だと言えます。

問答者聖グリゴリイは次のように語っています。

1「あなたがたは、この世のものを一切捨てることは出来ないにしても、この世のものを所有するに際して、せめて、そのものによってこの世に縛り付けられないようにしなさい。地上の物を所有する際、そのものがあなたがたを所有することのないようにしなさい。あなた方の所有しているものを、自分の心で支配するようにしなさい」

私たちは日曜日ごとに聖体礼儀に参祷して、主の御身体である御聖体に与ります。そのために朝食を抜き、神の御前で痛悔をして、心と体の準備をします。自分のしたいこと、自分の都合を、この時は置いてきているわけです。御聖体の前に進み出る私たちの姿は、網を置いて従った弟子たちの姿と重なります。その繰り返しの中に、私たちは祝福の道を歩んでいるのです。

2020年6月21日(日)

東京復活大聖堂教会 主任司祭

司祭ミハイル対中秀行

衆聖人の主日

誦読箇所:マトフェイ10:32-33,10:37-38,19:27-30

父と子と聖神の御名によりて

本日の聖福音経の誦読箇所をみてみましょう。

1「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」

1「わたしよりも父または毋を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」

1「ペテロがイエスに答えて言った。ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか。イエスは彼らに言われた。よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、毋、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」

ここでは、ハリストスをうけ認めることによってもたらされる特別な愛およびその愛の確かな報いのことについて語られています。

ハリストスは、ここで、自分につきしたがってくる人々が、ひどい迫害と残酷な苦難にあうであろうことを予測して、人々におそれることのない心がまえをもつことを、まずうながしています。

また、いっぽうで、やがて天国で、わたしたちに成就されるであろう、よろこばしき約束について伝えるとともに、他方で、いまは様々なおそれに向き合って、立ち向かうように励ましつつ、ハリストスが人々を救うために、この世にきた、神のまことの子であることをも伝えています。

それゆえ、ここでいう「十字架」とは、ハリストスのためにうけるであろう、侮辱、迫害などのさまざまな苦難を示し、それを忍び、最終的には致命することをも、うけいれることを意味しています。

そして、「世が改まって」とは、この世の終わりにあるであろう死者の復活の事実であり、このことばをもって、使徒たちおよびすべての真にハリストスに従う者が、来世においてうけるであろう、尊き誉れと栄光をさししめしていると正教会は伝統的に教えてきました。

また、ここで「イスラエルの十二の部族」とは、イスラエルの十二の子より生まれた、イアコフの生んだ子の名によるイウデヤ人のことであり、とくに、かれらは神を知るという点においては、まことに先んじているとされ、異邦人はそれに及ばない存在として、いつもあとを歩む者たちとされていました。

そこで、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」とは、どういうことなのでしょうか。それは、この世において、富と誉れをもって先んじている者は、来世においては、かえってうしろをあゆむこととなり、今は、富と誉れにおいてうしろをあゆむ者は、来世において、先をあゆむ者となるであろうことをあげて、私たちが天にのぼる条件として、謙遜、へりくだりの道を示しています。

しかし、わたしたちの願いが、名誉やおごりをもって、その目的となるこの世の価値に目が向けられたときには、その場で神によって、その者はしりぞけられることになることになるのです。

また、ハリストスは、受難と、十字架上の死をもって、その栄光の座につくことになる。また、それゆえに、彼ら使徒たち、および私たちハリスティアニンも、永遠の生命と栄光の国にはいることも預言しています。

そして、ハリストスに従う者は、ただこころのなかで信じているのみではなく、ことばにあらわしてハリストスをうけ認めることをも求めています。

そして、そのうけ認めた、まことのことわり、すなわち来世において永遠のいのちを得るという真理に服すること、また愛においては、隣人を愛せよというおしえを重んじるかたわらで、「わたし(ハリストス)よりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言われているのは、ひとえに目先の愛におぼれてはならないことをいましめています。

そして、わたしたちのめざすことは、まさしく神に肖(に)ることです。わたしたちが、神にふさわしい、より完全なものとなるためには、神との交わりによるしか、そのてだてはありません。そういう交わりを可能にするわたしたちの側のありかたこそ、神をうけいれるにふさわしいこころのありかたは、やはり謙遜にほかなりません。

ところで、本日は、五旬祭を迎えて、聖神の光にみたされてから、一週間を経たよき日であり、衆聖人の主日とよばれる祭日にあたります。

衆聖人とは、正教会では、衆義人、天使の品位、前駆授洗者、使徒、預言者、致命者、成聖者、修斎者、克肖者、神品致命者、表信者、神を愛する女たちのことをさしています。

正教会が、この日にかれらを記憶する意味の一つは、衆聖人たちがあったひどい迫害と残酷な苦難のように、だれしも不幸にあったときには、こころを広くたもち、かつ、主にすべてをゆだねて、ひたすらすくいをたのむこと、主よりつかわされるすべてのこころみを決してうらむことなく、たえること。このことにつとめて、みずからの命を全うした聖人たちを記憶して、わたしたちの糧とするためでもあります。

これより、教会では、もっとも大切な領聖という神との交わりの時をむかえます。聖体礼儀の天主経のすぐあとにあるお祈りに、「聖なる物は聖なる人(々)に」という一節があります。これは、「聖なる物、すなわちご聖体は、聖なる物にふさわしい人々に与えられる」、「わたしを受けいれる」にふさわしい人々に与えられるという意味であることをあらためて心においておかねばなりません。

そして、真に聖なるものはひとり、神・父の光栄をあらわす主イイスス・ハリストスのみであることを祈りのことばとして返して、いまわたしたちは領聖の時を待っているのです。

主よ光榮は爾に歸す。

2020年6月14日(日)

東京復活大聖堂教会

司祭パワェル中西裕一

五旬祭(聖神降臨祭)

誦読箇所:イオアン7:37-52, 8:12

!「今、光は見えないが それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払う[1]」。世界中を震撼させたウイルスの影響により、私たちの生活は様々な面で不便を強いられています。信徒にとっても、これまで当たり前であった教会への参祷、あらゆる奉仕活動、そして何よりハリストスのご聖体をいただくことから遠ざかって久しくなりました。しかしながら、これらを非公開にせざるを得ないほど、教会では「密」であることがいかに重視されてきたか再確認できるはずです。つまり、この共同体は日頃の親密性を試されている時なのではないでしょうか。

かつて、人々は一つの民で一つの言葉を話していました。ところが、彼らの結束力の証しは、残念ながら信仰による結び付きではありませんでした。そのような彼らは、主の御名においてではなく、ただ自分たちの名誉のためだけにある偉業を企てます。すなわち、天にまで届く「ワワィロンの塔」を築き、物理的に神様のそばへ近づこうとしたのです。すると、その不純な動機を察した神様の逆鱗に触れ、彼らの言葉は乱されてしまいました。そればかりか、彼らが再び一箇所に集まることがないよう、各地へと離散させたのです[2]

こうして、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました[3]」。けれども、「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません[4]」。本日祝われている五旬祭は、この「(常に)神は我々と共におられる[5]」事実を確証へと繋げるのに相応しい祭日と捉えられるでしょう。

神父は神子ハリストスを人々に賜い、神子ハリストスもこの世での生活を終える前、使徒たちに対して「神父が神聖神を遣わす」ことを約束されました[6]。そして実際、昇天後の五旬節に使徒たちが一同に会していると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖神に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした[7]」とありますが、これは創世記の事件を塗り替える出来事でした。

どちらも別々の言葉で話し始めた流れは似ているものの、後者の場合その意図が決定的に異なります。それは、単なる分離ではなく「福音を伝える」というハリスティアニン最大の使命に基づき、かえって完全に一致している点です[8]。分かりやすい例を挙げれば、私たちが海外の正教会で祈祷に与った時、耳ではほとんどその国の言葉を理解できないかも知れません。ところが、「奉神礼」という世界共通の言語は、五感を活用することで不思議と馴染めるでしょう。なぜなら、そこには「聖神の働き」、ひいては神様の臨在が確かに感じ取れるからです。

この祭日は、復活大祭以降唱えられていなかった「天の王、慰むる者よ[9]」で知られる祈祷文を再び唱え始める機会となります。そして、この聖神の来臨を呼び掛けるフレーズは、自宅待機を継続中の皆さんに大切な事柄を伝えるものです。「在らざる所なき者、滿たざる所なき者」である神様は、聖堂にしかおられない方ではありません。「(聖神を象徴する)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである[10]」ように、皆さんの自宅や職場ひいては一人ひとりの行いのうちにもまた、聖神の働きとして現れることでしょう。

私たちが自然と聖堂に集まる理由も、この聖神の導きによる結果であり、これによって信徒は生かされ、ハリストスをより体験的に学び、心から祈りを捧げ、そして救われます。ところが、ここのところ長らく公祈祷に与ることの出来ない不安から、「自粛ばかりでは精神的に健全な状態を保てない」旨の悩みが少なからず聞かれました。とはいえ、どれも表現を変えるだけで、結局は「自分だけ神様の恩寵に与ればそれで良い」という自分本位の考え方に帰結するのではないでしょうか。もしそうであるならば、それが私たち信徒の目指すべき心構えなのか、また神様に喜ばれる姿なのかをいま一度考えてみましょう。

もちろん、理想として「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです[11]」。それでも、聖使徒イオアン曰く「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません[12]」。たまたま自分や家族が健康に恵まれたようであっても、無自覚のうちに感染しているかも知れないと言われます。リスクの高い年配の方や病気に苦しむ兄弟姉妹も参堂する姿を思い浮かべられたなら、現実的に元通りの活動再開がまだしばらく難しいことは明らかです。

ただ、短期的には明るい展望が開けなくとも、この苦難はいずれ終息を迎えます。なぜなら、「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない[13]」ばかりか、「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださる[14]」からです。従って、今こそ「父と子と聖神の名によって[15]」洗礼を受けた者はみな、民族や言語に囚われない「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努め[16]」なければなりません。天に国籍を持つ私たち[17]にとって本当に必要な神様との距離は、物理的な近さではなく心理的な密接度でしょう。

聖使徒パワェルも次のように励まします。「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、ハリストスに対する固い信仰とを見て喜んでいます[18]」と。信徒の参祷が叶わない中でも奉神礼は守り続けられているように、いつでも信徒と奉仕者たちの気持ちは一つです[19]。私たちは記憶を通して「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去り[20]」にはしないだけでなく、地上の教会は天上の教会にリンクしていることをも忘れてはなりません。信徒の姿が見受けられない聖堂にも、確かに神様の恩寵は満ち溢れ、天軍、諸聖人、生者、死者の想いは集結するのです。

よって、聖職者・奉仕者たちは「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである[21]」という使命感に燃えることができ、聖神はこうして皆さんと同様に守るべき家族を持つ者にも、信徒に代わって祈りを捧げる特別な力を授けてくださいます。

ゆえに、離れていても「ハリストスは我等の間に在り」、「誠に在り、復永く在らんとす[22]」るように、私たちはどこにいても、何をしていても、神様がその場に立ち会っておられる事実を決して忘れてはなりません。むしろ、このような局面だからこそ、「ハリストスは世の光であり、従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ[23]」ことを信じ、各自が信仰による一致を保つならば、「火の舌」の如く使徒たちに降った「風」が、間もなく「雲を御足の塵[24]」とする日も近いでしょう。

2020年6月7日(日)1

東京復活大聖堂教会

伝教者ソロモン川島 大

[1] イオフ37:21-22

[2] 創世記11章,『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「昔は塔を建つる者は狂暴の爲に言は淆されたり」。

[3] 使徒行実17:26-27

[4] 同上

[5] マトフェイ1:23

[6] イオアン14:26,15:26

[7] 使徒行実2:2-4,『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「今は神學の光榮の爲に言は曉り易くなりたり」。

[8]『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「其時合一は失われて苦を致し、今合同は新にせられて我が靈の救を致す」。

同上, p.469, 小讃詞「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給えり、故に我等同一に至聖神を讚榮す」。

[9] 同上, pp.458-459

[10] イオアン3:8

[11] コリンフ後4:18

[12] イオアン第一4:20

[13] マトフェイ18:14

[14] 同上24:22

[15] マトフェイ28:19

[16] エフェス4:3

[17] フィリッピ3:20

[18] コロサイ2:5

[19]『五旬経略』p.470, 同讃詞「常に爾の使徒と偕に在るが如く、我等爾を恃む者と偕にし、我等に同一にして爾を歌い、爾が至聖の神を讚榮せしめ給え」。

[20] エウレイ13:5

[21] 歴代誌略上28:20

[22]『奉事経』p.151

[23] イオアン8:12

[24] ナウム1:3