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五旬祭後 第2主日

誦読箇所:マトフェイ4:18~23

父と子と聖神の名によりて

ガリラヤ湖の岸辺で四人の漁師が仕事をしていると、通りかかったイイススに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられました。そして四人のうちペトルとアンドレイの兄弟は、網をその場に置いて主イイススに従いました。

現代に生きる私たちは、このような出来事に戸惑いを覚えます。仕事や道具や家を残して、また、培った人脈を置いて、すぐに従うなどということが出来るでしょうか。ましてや、私たちは幼い頃から「知らない人についていってはいけません」と言われて育っています。この兄弟は何のためらいもなく素直に網を置いてイイススの呼びかけに応じました。

私たちも彼らと同じように主に呼ばれているのですが、王様の婚宴(マトフェイ22:1~)に呼ばれた人々のように「若いから」「忙しいから」「年を取っているから」「そんな立派な人間ではないので」と理由をつけて、なかなか招きに応じようとはしません。しかし、主は単に「私について来なさい」とおっしゃったのであって「~でなければ」という条件をつけてはいません。

旧約聖書創世記十二章には、アブラハムが突然主から呼ばれる場面があります。

主は彼に「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:1~2)と告げ、アブラハムはその言葉に従ってハランの地を出発しました。そして約束の地、カナンを目指したのです。それはただ神様がそうおっしゃったというだけで、目に見える保証も手当ても何もありません。それでもなお、彼は神を信じて呼びかけに応じ行動した。それが、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以です。

ハリストスは「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マトフェイ10:38)ともおっしゃっています。主に従おうと思いながらも自分を捨てきれない私たちは、心の中に葛藤を生じますが、その葛藤を乗り越えて主に従う、あるいは従おうとする、その歩みが私たちにとっての「網を置いていく」行為だと言えます。

問答者聖グリゴリイは次のように語っています。

1「あなたがたは、この世のものを一切捨てることは出来ないにしても、この世のものを所有するに際して、せめて、そのものによってこの世に縛り付けられないようにしなさい。地上の物を所有する際、そのものがあなたがたを所有することのないようにしなさい。あなた方の所有しているものを、自分の心で支配するようにしなさい」

私たちは日曜日ごとに聖体礼儀に参祷して、主の御身体である御聖体に与ります。そのために朝食を抜き、神の御前で痛悔をして、心と体の準備をします。自分のしたいこと、自分の都合を、この時は置いてきているわけです。御聖体の前に進み出る私たちの姿は、網を置いて従った弟子たちの姿と重なります。その繰り返しの中に、私たちは祝福の道を歩んでいるのです。

2020年6月21日(日)

東京復活大聖堂教会 主任司祭

司祭ミハイル対中秀行

衆聖人の主日 2020

誦読箇所:マトフェイ伝10:32-33,10:37-38,19:27-30

父と子と聖神の御名によりて

本日の聖福音経の誦読箇所をみてみましょう。

1「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」

1「わたしよりも父または毋を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」

1「ペテロがイエスに答えて言った。ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか。イエスは彼らに言われた。よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、毋、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」

ここでは、ハリストスをうけ認めることによってもたらされる特別な愛およびその愛の確かな報いのことについて語られています。

ハリストスは、ここで、自分につきしたがってくる人々が、ひどい迫害と残酷な苦難にあうであろうことを予測して、人々におそれることのない心がまえをもつことを、まずうながしています。

また、いっぽうで、やがて天国で、わたしたちに成就されるであろう、よろこばしき約束について伝えるとともに、他方で、いまは様々なおそれに向き合って、立ち向かうように励ましつつ、ハリストスが人々を救うために、この世にきた、神のまことの子であることをも伝えています。

それゆえ、ここでいう「十字架」とは、ハリストスのためにうけるであろう、侮辱、迫害などのさまざまな苦難を示し、それを忍び、最終的には致命することをも、うけいれることを意味しています。

そして、「世が改まって」とは、この世の終わりにあるであろう死者の復活の事実であり、このことばをもって、使徒たちおよびすべての真にハリストスに従う者が、来世においてうけるであろう、尊き誉れと栄光をさししめしていると正教会は伝統的に教えてきました。

また、ここで「イスラエルの十二の部族」とは、イスラエルの十二の子より生まれた、イアコフの生んだ子の名によるイウデヤ人のことであり、とくに、かれらは神を知るという点においては、まことに先んじているとされ、異邦人はそれに及ばない存在として、いつもあとを歩む者たちとされていました。

そこで、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」とは、どういうことなのでしょうか。それは、この世において、富と誉れをもって先んじている者は、来世においては、かえってうしろをあゆむこととなり、今は、富と誉れにおいてうしろをあゆむ者は、来世において、先をあゆむ者となるであろうことをあげて、私たちが天にのぼる条件として、謙遜、へりくだりの道を示しています。

しかし、わたしたちの願いが、名誉やおごりをもって、その目的となるこの世の価値に目が向けられたときには、その場で神によって、その者はしりぞけられることになることになるのです。

また、ハリストスは、受難と、十字架上の死をもって、その栄光の座につくことになる。また、それゆえに、彼ら使徒たち、および私たちハリスティアニンも、永遠の生命と栄光の国にはいることも預言しています。

そして、ハリストスに従う者は、ただこころのなかで信じているのみではなく、ことばにあらわしてハリストスをうけ認めることをも求めています。

そして、そのうけ認めた、まことのことわり、すなわち来世において永遠のいのちを得るという真理に服すること、また愛においては、隣人を愛せよというおしえを重んじるかたわらで、「わたし(ハリストス)よりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言われているのは、ひとえに目先の愛におぼれてはならないことをいましめています。

そして、わたしたちのめざすことは、まさしく神に肖(に)ることです。わたしたちが、神にふさわしい、より完全なものとなるためには、神との交わりによるしか、そのてだてはありません。そういう交わりを可能にするわたしたちの側のありかたこそ、神をうけいれるにふさわしいこころのありかたは、やはり謙遜にほかなりません。

ところで、本日は、五旬祭を迎えて、聖神の光にみたされてから、一週間を経たよき日であり、衆聖人の主日とよばれる祭日にあたります。

衆聖人とは、正教会では、衆義人、天使の品位、前駆授洗者、使徒、預言者、致命者、成聖者、修斎者、克肖者、神品致命者、表信者、神を愛する女たちのことをさしています。

正教会が、この日にかれらを記憶する意味の一つは、衆聖人たちがあったひどい迫害と残酷な苦難のように、だれしも不幸にあったときには、こころを広くたもち、かつ、主にすべてをゆだねて、ひたすらすくいをたのむこと、主よりつかわされるすべてのこころみを決してうらむことなく、たえること。このことにつとめて、みずからの命を全うした聖人たちを記憶して、わたしたちの糧とするためでもあります。

これより、教会では、もっとも大切な領聖という神との交わりの時をむかえます。聖体礼儀の天主経のすぐあとにあるお祈りに、「聖なる物は聖なる人(々)に」という一節があります。これは、「聖なる物、すなわちご聖体は、聖なる物にふさわしい人々に与えられる」、「わたしを受けいれる」にふさわしい人々に与えられるという意味であることをあらためて心においておかねばなりません。

そして、真に聖なるものはひとり、神・父の光栄をあらわす主イイスス・ハリストスのみであることを祈りのことばとして返して、いまわたしたちは領聖の時を待っているのです。

主よ光榮は爾に歸す。

2020年6月14日(日)

東京復活大聖堂教会

司祭パワェル中西裕一

五旬祭 (聖神降臨祭) 2020

!「今、光は見えないが それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払う[1]」。世界中を震撼させたウイルスの影響により、私たちの生活は様々な面で不便を強いられています。信徒にとっても、これまで当たり前であった教会への参祷、あらゆる奉仕活動、そして何よりハリストスのご聖体をいただくことから遠ざかって久しくなりました。しかしながら、これらを非公開にせざるを得ないほど、教会では「密」であることがいかに重視されてきたか再確認できるはずです。つまり、この共同体は日頃の親密性を試されている時なのではないでしょうか。

かつて、人々は一つの民で一つの言葉を話していました。ところが、彼らの結束力の証しは、残念ながら信仰による結び付きではありませんでした。そのような彼らは、主の御名においてではなく、ただ自分たちの名誉のためだけにある偉業を企てます。すなわち、天にまで届く「ワワィロンの塔」を築き、物理的に神様のそばへ近づこうとしたのです。すると、その不純な動機を察した神様の逆鱗に触れ、彼らの言葉は乱されてしまいました。そればかりか、彼らが再び一箇所に集まることがないよう、各地へと離散させたのです[2]

こうして、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました[3]」。けれども、「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません[4]」。本日祝われている五旬祭は、この「(常に)神は我々と共におられる[5]」事実を確証へと繋げるのに相応しい祭日と捉えられるでしょう。

神父は神子ハリストスを人々に賜い、神子ハリストスもこの世での生活を終える前、使徒たちに対して「神父が神聖神を遣わす」ことを約束されました[6]。そして実際、昇天後の五旬節に使徒たちが一同に会していると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖神に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした[7]」とありますが、これは創世記の事件を塗り替える出来事でした。

どちらも別々の言葉で話し始めた流れは似ているものの、後者の場合その意図が決定的に異なります。それは、単なる分離ではなく「福音を伝える」というハリスティアニン最大の使命に基づき、かえって完全に一致している点です[8]。分かりやすい例を挙げれば、私たちが海外の正教会で祈祷に与った時、耳ではほとんどその国の言葉を理解できないかも知れません。ところが、「奉神礼」という世界共通の言語は、五感を活用することで不思議と馴染めるでしょう。なぜなら、そこには「聖神の働き」、ひいては神様の臨在が確かに感じ取れるからです。

この祭日は、復活大祭以降唱えられていなかった「天の王、慰むる者よ[9]」で知られる祈祷文を再び唱え始める機会となります。そして、この聖神の来臨を呼び掛けるフレーズは、自宅待機を継続中の皆さんに大切な事柄を伝えるものです。「在らざる所なき者、滿たざる所なき者」である神様は、聖堂にしかおられない方ではありません。「(聖神を象徴する)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである[10]」ように、皆さんの自宅や職場ひいては一人ひとりの行いのうちにもまた、聖神の働きとして現れることでしょう。

私たちが自然と聖堂に集まる理由も、この聖神の導きによる結果であり、これによって信徒は生かされ、ハリストスをより体験的に学び、心から祈りを捧げ、そして救われます。ところが、ここのところ長らく公祈祷に与ることの出来ない不安から、「自粛ばかりでは精神的に健全な状態を保てない」旨の悩みが少なからず聞かれました。とはいえ、どれも表現を変えるだけで、結局は「自分だけ神様の恩寵に与ればそれで良い」という自分本位の考え方に帰結するのではないでしょうか。もしそうであるならば、それが私たち信徒の目指すべき心構えなのか、また神様に喜ばれる姿なのかをいま一度考えてみましょう。

もちろん、理想として「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです[11]」。それでも、聖使徒イオアン曰く「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません[12]」。たまたま自分や家族が健康に恵まれたようであっても、無自覚のうちに感染しているかも知れないと言われます。リスクの高い年配の方や病気に苦しむ兄弟姉妹も参堂する姿を思い浮かべられたなら、現実的に元通りの活動再開がまだしばらく難しいことは明らかです。

ただ、短期的には明るい展望が開けなくとも、この苦難はいずれ終息を迎えます。なぜなら、「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない[13]」ばかりか、「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださる[14]」からです。従って、今こそ「父と子と聖神の名によって[15]」洗礼を受けた者はみな、民族や言語に囚われない「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努め[16]」なければなりません。天に国籍を持つ私たち[17]にとって本当に必要な神様との距離は、物理的な近さではなく心理的な密接度でしょう。

聖使徒パワェルも次のように励まします。「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、ハリストスに対する固い信仰とを見て喜んでいます[18]」と。信徒の参祷が叶わない中でも奉神礼は守り続けられているように、いつでも信徒と奉仕者たちの気持ちは一つです[19]。私たちは記憶を通して「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去り[20]」にはしないだけでなく、地上の教会は天上の教会にリンクしていることをも忘れてはなりません。信徒の姿が見受けられない聖堂にも、確かに神様の恩寵は満ち溢れ、天軍、諸聖人、生者、死者の想いは集結するのです。

よって、聖職者・奉仕者たちは「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである[21]」という使命感に燃えることができ、聖神はこうして皆さんと同様に守るべき家族を持つ者にも、信徒に代わって祈りを捧げる特別な力を授けてくださいます。

ゆえに、離れていても「ハリストスは我等の間に在り」、「誠に在り、復永く在らんとす[22]」るように、私たちはどこにいても、何をしていても、神様がその場に立ち会っておられる事実を決して忘れてはなりません。むしろ、このような局面だからこそ、「ハリストスは世の光であり、従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ[23]」ことを信じ、各自が信仰による一致を保つならば、「火の舌」の如く使徒たちに降った「風」が、間もなく「雲を御足の塵[24]」とする日も近いでしょう。

2020年6月7日(日)

東京復活大聖堂教会

伝教者ソロモン川島 大

[1] イオフ37:21-22

[2] 創世記11章,『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「昔は塔を建つる者は狂暴の爲に言は淆されたり」。

[3] 使徒行実17:26-27

[4] 同上

[5] マトフェイ1:23

[6] イオアン14:26,15:26

[7] 使徒行実2:2-4,『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「今は神學の光榮の爲に言は曉り易くなりたり」。

[8]『五旬経略』p.459, 挿句の讃頌「其時合一は失われて苦を致し、今合同は新にせられて我が靈の救を致す」。

同上, p.469, 小讃詞「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給えり、故に我等同一に至聖神を讚榮す」。

[9] 同上, pp.458-459

[10] イオアン3:8

[11] コリンフ後4:18

[12] イオアン第一4:20

[13] マトフェイ18:14

[14] 同上24:22

[15] マトフェイ28:19

[16] エフェス4:3

[17] フィリッピ3:20

[18] コロサイ2:5

[19]『五旬経略』p.470, 同讃詞「常に爾の使徒と偕に在るが如く、我等爾を恃む者と偕にし、我等に同一にして爾を歌い、爾が至聖の神を讚榮せしめ給え」。

[20] エウレイ13:5

[21] 歴代誌略上28:20

[22]『奉事経』p.151

[23] イオアン8:12

[24] ナウム1:3