尊貴にして生命を施す十字架の全地の挙栄祭(守斎の日)

聖なる十字架の挙栄祭 (新暦9月14日/旧暦9月27日)

主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が私達のために十字架にかけられた後、主の十字架は一緒に十字架にかかった犯罪人の十字架と一緒に近くの坑に投げ込まれ、土でおおわれました。

長い年月が経って、ゴルゴダ(私達の救い主が十字架にかかった場所)と主が再び起き上がられた墓が、教会からこの地上で最も神聖な場所と考えられるようになると、ローマの皇帝ハドリヤヌスは、その地の真中に異教徒の寺を建設することにしました。それにより、キリスト教徒がそこで祈るのを止めさせ、キリスト教徒の信仰をついでになくしてしまうことを期待したのです。そして異教徒の寺が上にのっているその神聖な場所も時がたてば忘れられるだろうとの計算が彼らにはありました。

だが、キリスト教徒は、神聖なその場所を忘れることはなく、そこに通い続けました。キリスト教徒は異教の寺の外側に立ち、神様に祈ろうとしました。ついに、神様はイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の聖なる教会としての、この神聖な場所に戻って来られ、そしてイイススもまた、私達の救い主の聖であり、貴重なその十字架を、信徒達に現されました。

それは次のようにして起こりました。5世紀の初頭、コンスタンチンと言う名のローマの皇帝がいました。神様はこの人の心を御存知で、コンスタンチンが神様の恵みを受け入れ、ハリストス(キリスト)に従うだろうと言うことが分かつておりました。それは、コンスタンチンが自分の兵卒を大規模でしかも大変重大な戦闘に率いることができた時に起こりました。コンスタンチンの軍は大変に数が多かったのですが、戦いの勝ち目はなさそうに見えました。さて、戦いの前日になり、巨大な十字架の形をした光が、「この印により、勝利をおさめよ! Jというよく通る声と一緒に空に現れました。コンスタンチンの兵全員がその不思議な印を見、彼らは恐れました。

コンスタンチンもやはりそれには驚きました。しかし、夜、神様はコンスタンチンに神様のお考えを話されました。それによれば、コンスタンチンは自分の兵に、各自が持つ旗と盾に十字を描くように指示しなければならず、そうすれば、神はコンスタンチンを勝たせてくれるだろう、と言うのです。その通りにすると、次の日、コンスタンチンの軍隊は戦いに勝ちました。

その時からコンスタンチンはキリスト教徒を保護する人となり、後になりコンスタンチン自身もキリスト教徒になりました。聖コンスタンチンは自然と十字架に対する特別の、深い尊敬の心を抱くようになりました。コンスタンチンと、母親の聖エレナ(へレナ)の二人は私達の救い主が私達のために死んだ本物の十字架を見つけだし、それを崇めたいと思いました。そ乙で、聖エレナ(へレナ〉はエルサレムへの旅に出ました。

長い間捜しまわったすえ、十字架と、はりつけの後埋葬した場所が見つかりました。それが、ハリストス(キリスト)がその上で死んだ十字架であると断定するのは難しいことではありませんでした。というのは、主がその十字架を通して幾つかの奇蹟をなされたからです。その中で最も驚くことは、死んだばかりで、葬るために運び去られた人を、散らばっている幾つかの十字架のところへ運んで来て、その中の幾つかの上に置いてみましたが、何も起こりませんでした。でも、救い主の十字架の上に置くと、主は彼に命を戻らせ、こうして、まことの十字架がはっきりと分かったのです。

その時から、何千人ものキリスト教徒が真の十字架の発見を聞きつけ、このかけがえのない聖遺物に詣でるためにエルサレムに集まりました。エルサレムの主教マカリイ(マカリオス)は十字架が立っていた場所に立ち、助けを借りて、集まった人達皆が見られるように、高くその生命を授ける十字架を持ち上げました。それを見て、そこにいた人達は床に崩れるようにしてひれ伏し、喜びのあまり「主よ、憐れみ給え」と声をあげました。

聖女帝エレナ(へレナ)は十字架の半分を聖墓に新たに建てられた復活聖堂に置き、その他は釘で組み立て、エレナ(へレナ)の息子の聖大コンスタンチンのもとに置きました。エルサレムに詣でた人達に、エルサレムに残った墓の十字架からその小さな破片を持ち帰ることが許されると、この生命を授ける十字架の遺物は世界各地に散って行きました。

私達の救い主の貴重な聖十字架の発見と尊敬は主降誕326年に行われました。その時から、ハリストス(キリスト)の復活を讃める大規模な聖堂の建設が始まりました。聖堂は主降誕335年9月1 3日に完成し、9月1 4日に聖堂の成聖が行われ、そして十字架の高揚を毎年祝うようになりました。この日私達は厳しい粛を守り、私達のためにイイススが耐え忍ばれた苦しみを思い起こすのです。