主の聖枝祭(私達の救い主のエルサレム入城)(復活大祭の一週間前の主日)
私達の救い主の変容からまもなくして、イイススが私達のために御自身を供えるためにエルサレムへ行く時がきました。それは「過越」というユダヤの祭の時で、イイススはその時、ベタニアのマリヤ、マルファ(マルタ)そしてラザリ(ラザロ)の家にいました。私達の救い主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が私達のために十字架上で御自身を捧げられる時が、今きました。主は使徒たちを伴ってエルサレムへ上って行かれました。ベタニアからエルサレムに通じる道は、険しい山道を登り、それからオリープ山の遠方の山麓に通じています。山道の頂上近くにベテパゲ、という小さい町があります。そこにイイススは止どまり、何人かのお弟子さんたちを、イイススが乗るための若いロパを連れてくるために町に行かせました。主は私達に本当の謙虚さについて教えるためにそうさせたのです。
ここから先、道はオリープ山に沿って進んでいるので、エルサレム市全体が谷とは反対側に見渡すことができます。イイススはこの道を進まれ、谷に下り、ケデロン川と言う小さな川を横断し、それから市の門へと登って行かれました。そして使徒たちもイイススのすぐ後をついて行きました。一行が門に近づくと、町の人達が主に会いに出て来ました。
イイススが来られたことを知らせる声が市全体に広がりました。何百人もの市民が門からあふれ出てきました。市民の何人かは木の枝を折って教会の旗のように振り、ある者は自分達の下着や上着を脱いで、イイススがお乗りになったロパが通り過ぎる道の上に敷きました。人々は「いと高きところには栄光あれ、主の名によって来る王に祝福あれJ(ルカ伝1 7章38節)と声をあげはじめました。
人々は幸せでした。人々は、イイススがローマの侵略者から自分達を解放し新しいユダヤの王国を築くために来たのだと考えていたのです。人々には、イイススが悪魔、サタンから私達を解き放ち、新しい神の王国を築くために来たのだということが理解できませんでした。私達の救い主はこの目、幸せではありませんでした。
まもなく、これらの人々の大半がイイススの反対側に立つだろうということがイイススには分かっていました。それは、これらの人達が聖書の本当の意味、あるいは、イイススがこの世に来られた本当の意味について分かっていないからでした。イイススが私達を死と罪から解放するために、自らの生命を犠牲にしようとしていることがこれらの人達には分かりませんでした。
イイススへのこの大きな歓迎ぶりが悪いユタヤの支配者の耳に入ると、彼らはねたみ怒るようになりました。彼らはそこで何かイイススを殺す方法を考え出すことにしました。私達の救い主はユダヤ人の悪い支配者たちが考えていることを知り、大変に悲しまれました。
エルサレムで主は宮に行かれました。ここで主がご覧になったものは神の家の中で物を売り、道の真中と同じようにがやがや無駄話をしている人達でした。イイイスは「私の家は祈りの家である。だが、あなた達は盗賊の巣としてしまった」と言われ、これらの人達を道の外に追い出し、机や露庖の板を倒されました。その後、イイススは盲人を癒し、他に何人もの病人を治されました。何人かの人は「ホサンナ」と叫び続けました。こうしたことのすべては、悪い支配者達をより一層怒らせることになりました。彼らは悪い人たちでありました。そこで人々の正しい行いを目にすることは嫌いだったのです。
その日の夕方、主はベタニアの、イイススのお弟子さんであるマリヤ、マルファ(マルタ〉、そしてラザリ(ラザロ)たちの家にもどって才子かれました。このラザリはイイススが死から起こされたのと同じ人です。
この枝の祭の日には、私達は早課の問、木の枝をもっています。それは、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)を私達の主であり救い主として、私達の心の中に真心をもって受け入れることを望むからです。私達はあのユダヤ人達のように主を迎えることはしません。ユダヤ人達は主が来られたわけが解らなかったのです。そこですぐに主に反抗したのです。イイススがこの世に来られたわけを、そしてイイススが私達を救うために私達の心の中に入って来られたわけを私達は知っており、また理解しているのです。