シリヤ人の聖エフレムは四世紀の聖人です。聖大ワシリイなどと交流がありました。謙虚だったため、司祭への叙聖を断り、生涯を通じて輔祭として修道生活を貫きました。
聖エフレムは正教会にとって非常に価値のある多くの霊的な著作を残しました。そして聖者の祈り「聖エフレムの祝文」は四旬節(大斎)中におこなわれる、すべての正教会の平日の奉神礼で用いられています。これは正教徒の冀願(きがん)の祈りの傑作であり、その美しさと簡潔さによって、正教の祈りの要点を僅かな言葉でとらえています。
もちろん、この祝文は大斎中でなくとも、日々の祈りのなかで、唱えてもよい痛悔の祈りです。こうした祈りの言葉は、私達正教徒にとって宝です。告解(機密)は神父の前でしかできませんが、悔い改めは、いつどこでもできます。その指針としてこの祝文は大いなる援けとなります。
「主、わが生命の主宰よ、怠惰(おこたり)と愁悶(もだえ)と空談(むだごと)のこころを、われに与うるなかれ。
貞潔(みさお)と謙遜(へりくだり)と、忍耐(こらえ)と、愛のこころを、われ汝の僕に与えたまえ。
ああ、主、王よ、われに我が罪を見、我が兄弟を議せざるをたまえ。けだし、汝は、世々にあがめほめらる。アミン。」
原文はギリシャ語ですが、各国語の翻訳に触れると、少しずつニュアンスが異なるように思うこともありますが、聖エフレムの祈りの意味は一貫して変わりません。あまり個々の言葉の意味にこだわっての解釈は、そのことだけで終わってしまいがちで、お奨めしません。自らの祈りのなかで、その変わらない主旨へと、まず目を向けてください。
すなわち、この祝文を唱えるとき、やはり怠惰とか愁悶とか、空談等々、祈祷文の言葉のとらえかたへとまず心が向かってしまいます。
その前に、この祝文について正教会の伝統が伝えてきたものは、まず「主、わが生命の主宰よ」であることを心しましょう。それから次にすすみましょう。
まずは、神が私達の生命のみなもと、主宰者であると告白するよう勧めています。神がいなければ何ひとつ為すことは不可能です。神の助けがあってこそ、すべてのことが可能になります。これが私たちの生命の始まりです。これが、最も大切なこの祝文のこころです。これを忘れていたら、私達はこの先、律法主義に堕する怖れすらあります。
さて、真の人生によって克服されるべき最初の障害は怠惰(おこたり)です。それは無関心、不注意、エネルギーの欠如を意味します。
怠惰の結果は、臆病と好奇心です。これは弱さであり、致命的となる絶望へと連なり、すべてを取るに足らない、価値のないものと見なしていきます。それは私たちを弱くし、新たな挑戦と努力の姿勢を恐れるあまり、知性や活力を失わせます。
正教の霊的伝統によれば、臆病と好奇心は考えられるすべての精神的状態の中で最悪です。それは魂の死そのものです。臆病と好奇心という悪の根源は、権力に対する過度の欲望へと向かいます。
この罪は実際には臆病と好奇心の直接の結果であると言う人さえいます。なぜなら、この罪は興味や欲望は私にとって必要なものであり、価値があるものという自己正当化の信念からきているからです。
その源が何であれ、力への際限のない欲望と、他の人や物事を「上回ろうとする欲望」(しのぎ)は弱さそのもののあらわれであり、それだけで、生命につながることや、愛と自己犠牲を示すというハリスティアニン(キリスト者)の徳とは対極にあるものです。
無駄な語らいもあります。それは悪の力そのものであるため、それを避けることを祈りに含めなければなりません。優しさのない言葉ほど、人生を毒するものはありません。不必要で罪深い言葉だけでなく、人生の美しさと価値に貢献するどころか、助けるどころか、本当の生命に至るための啓発の要素を持たない言葉です。
この目的のために、ハリストスご自身が、人々はその極悪非道な言葉だけでなく、その空しい言葉によって裁かれた後、その言葉によって救われるか、あるいは罪に定められることになると主は警告しておられます。
「『マトフェイ伝』12:36あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。12:37あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」
さて、純粋なこころは人間の生命の基本的な力です。なぜなら、純粋さは私たちが神と結合するための第一の前提だからです。それは、人間が創造された神の似姿の完成、完全性です。
謙遜の精神は純粋さと神の教えから生まれます。屈辱とは、物事をただ目の前に見えたままに認識することであり、それは理論でしかありません。自分自身も、他人も、神も、そして世界も、自分自身が創造した夢の世界や自分自身の心の空虚な想像の中にではなく、現実の世界を真実に従って厳密に生きる今の力そのものが謙遜です。純粋さと謙遜さからは忍耐が生まれます。それは、真実のためにすべてを耐える能力です。それは、神の国の義のゆえに、すべての人を愛して苦しむ力として賜ります。
そして、最後に、すべての徳の中で最大の愛がやって来ますが、それは神ご自身の存在そのものであり、命そのものであるため、決して終わることはありません。そのような文脈のもとであらためて、よく知られた次の聖句をみてください。
「『コリンフ前』13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。13:13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
「『イオアン公書第一』4:15もし人が、イイススを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 4:16わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」
「『イオアン公書第一』4:7愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 4:8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
こうして、シリヤの聖エフレムの祈りは、私達が、常に大四旬節の期間中に求むべき生活の全容を、短く簡潔な言葉で要約しています。そして、復活祭、すなわちハリストスの、死者の中からの復活による、生命の勝利を祝う日への修練がそこにあります。
そして、最後に「とりわけ,主,王よ,私の側に躓きを見て,私の兄弟(が斎をちゃんとしていない場合でもそれを*)裁いたりしないことをお与えください。
なぜなら,あなたは世々にほめあげられるからです。
「私はしっかり斎をしている」という思い上がりが、このレヴェルでの大敵です。
* 断肉の主日の早課スティヒラ(『三歌斎経』69頁)が典拠です。「我が霊よ,慎め,斎するか,爾の近者を軽蔑するなかれ,自ら食を禁ずるか,爾の兄弟を議するなかれ,(以下略)」による