沿革

日本ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」の沿革

(掲載写真の一部は、大主教セラフィム辻永昇『亜使徒 日本の大主教 聖ニコライ』日本ハリストス正教会教団宗務総局刊、2012/9/1刊所収)

正教を伝道するためにロシアから日本に渡った亜使徒聖ニコライは、最初の伝道地・函館を1872年1月に発ち上京。同年9月、神田駿河台にあった定火消の役宅跡地を購入のうえ、伝道の新たな拠点として「本会」を設置した。

宣教の成果は目覚ましく、1880年には本会のほか、東京各地に10個の教会が新設される。各教会は聖堂、会堂、集会所のいずれかを有し、活発な活動を展開。

ニコライ堂(東京復活大聖堂)の建設は、この本会敷地内に、ニコライ師指導のもとで進められた。1884年に着工し、1891年に竣工。同年3月8日、主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する「復活大聖堂」として成聖された。

原設計はミハイル・シチュールポフ氏、実施設計はジョサイア・コンドル氏による。残念ながら、原設計図は見つかっておらず(あるいは失われたため)、実施設計図も断片が残されているのみ。よって、原設計と実施設計の間に、どれほどの改変が行われたかは分かっていない。

大聖堂の建設は、ロシアからの寄付金と日本人信徒の献金とによって無事に竣工したものの、日本の正教会はそれから度重なる試練を経験することとなる。

 

1912年にニコライ大主教が永眠。1917年のロシア革命によって成立した共産主義政権下では、母教会であるロシア正教会が弾圧の対象となった。こうして、日本の正教会は生まれたばかりの状態のまま母教会からの支援を失ってしまう。

ニコライ大主教の説教

 

さらに、1923年には関東大震災が発生する。木造の鐘楼部分が倒壊したことで上部ドームは崩落。全体が火災に見舞われて、土台と煉瓦壁のみが残された。東京各地にあった本会以外の諸教会もまた、四谷教会などを除きその多くが被災している。

 

『東京復活聖堂画帳』大日本正教本会編輯所、1905年刊より

ニコライ師の後継者・セルギイ府主教は、困難な情勢下に起きた大震災にもかかわらず、聖堂だけでなく信徒達の精神面においても復興を図るべく指導にあたった。大聖堂が復興するまでの間は、四国・松山から境内地に「奇蹟者聖ニコライ聖堂(イコノスタスは大阪ハリストス正教会に現存)」が移築され、そこで奉神礼(礼拝)が行われている。

大聖堂の復興工事は1927年9月25日に起工し、1929年11月30日に終了。同年12月15日、復興された大聖堂の成聖式が行われる。復興設計者は岡田信一郎氏。

聖鐘は大震災以降、松山から聖堂と共に移されたものを使っていたが、以前に比べて小さいものであった。そこで、これを函館教会に送る代わりに現地から大鐘を取り寄せ、大聖堂の親鐘とする。この親鐘は、かつて箱根・塔ノ沢に存在した正教会の避暑館に設置されていたもの。親鐘のほか、ポーランドで鋳造された五個の鐘がともに配された。2018年9月には、ロシア製の鐘が大幅に増え、新たな「ニコライの鐘」となって今日に至る。

大聖堂の建立時、ロシアからの義援金に多くを拠った。しかし、関東大震災からの復興に際しては、もちろん世界各地の正教会から少なくない額の寄付金は寄せられたが、復興の主体は日本人正教徒たちである。ニコライ堂に集う信徒のみならず、全国から大聖堂再建のために献金が寄せられた。

かねてより、日露戦争、ロシア革命などで悪化する日露・日ソ関係の影響や、それに伴う偏見を日本の正教会は蒙ってきた歴史がある。また、第二次世界大戦のさなかには、国内の各宗教団体への政府の統制が厳しくなった結果、日本の正教会も例外なく様々な圧力を受けた。大戦中にセルギイ府主教は退任を余儀なくされ、特別高等警察により40日間拘留。釈放されたものの、ほどなくして1945年8月10日永眠した。

大戦中、空襲の被害を免れた大聖堂や境内地の建物であったが、終戦直後には小聖堂に戦災永眠者の遺骨が散乱するなど、荒れるに任せられていたとされる。

大戦後、日本の正教会はアメリカから主教を迎え、信仰生活を継続。大聖堂で活動中の本会をはじめとする諸正教会は、戦後すぐの混乱から立ち直り、日曜学校の復興といった教会活動は活発化した。1956年には、新たに川崎正教会(後に多摩教会となり、東京復活大聖堂に統合)の設立という宣教の実りがもたらされている。1962年3月、大聖堂が国の重要文化財に指定された。

アンボン(高壇)から望む大聖堂内部(360°画像・ドラッグしてください)

1970年、日本正教会が「自治正教会」としてロシア正教会・モスクワ総主教庁から承認を受けるとともに、東京復活大聖堂は日本正教会の首座主教座教会となった。

1972年にはフェオドシイ永島新二府主教が首座主教として着座。1999年5月7日に永眠するまで、長く日本正教会の指導にあたった。

1974年には大聖堂教会を使用していた五つの教会が合併し、「中央教会」として発足した。この中央教会が1983年に「東京復活大聖堂」と名を変え、現在に至っている。

1992年、東京復活大聖堂の補修が開始される。国内の重要文化財はほとんどが木造であり、石造の中では東京復活大聖堂が一番古く、これから始まる石造文化財修復の先駆けとなった。

亜使徒日本の大主教聖ニコライについては日本ハリストス正教会ホームページにも紹介があります。

大聖堂と聖ニコライ小聖堂(現在は納骨堂として使用されています)

補修開始前の準備期間を入れれば、およそ9年もの歳月が費やされ、輝けるばかりの姿となった。聖堂内のシャンデリアは、明治期の複製でこの時新調されている。大聖堂の一番奥にある至聖所の壁には、印の生神女(しるしのしょうしんじょ)、神使首(しんししゅ)ミハイル、神使首ガウリイルの、三つの聖像が新たに掲げられた。聖像画師は、フェオドシイ永島新二府主教による厳選の結果に指名された、至聖三者聖セルギイ大修道院にあるモスクワ神学大学聖像学科の教授ヴァレンチナ・グラゾフスカヤ姉である。補修工事は1998年に完了した。

2000年5月14日、ダニイル主代郁夫府主教が首座主教として着座。東京復活大聖堂はその主教座教会である。また、2019年7月6日、セラフィム辻永昇大主教が東京の副主教に就任している。

略年表

  1. 1872年9月 – 亜使徒聖ニコライ、神田駿河台に「本会」を設置。正教伝道の拠点とする。
    1880年3月 – 亜使徒聖ニコライ、サンクト・ペテルブルグにて主教に叙聖される。
    1884年3月 – 亜使徒聖ニコライの指導のもと、大聖堂建設工事が開始される。
    1891年3月8日 – 復活大聖堂竣工。成聖式(せいせいしき)挙行。
    1904年 – 日露戦争勃発。聖ニコライはロシアに帰国せず、日本にとどまり、本会敷地内にそのまま暮らし、信徒たちを導き続けた。
    1912年2月16日 – 亜使徒大主教聖ニコライ永眠。
    1917年 – ロシア革命。革命政府は正教を含む宗教を激しく弾圧したため、以後ロシア正教会と日本の正教会との関係が途絶えた。
    1923年9月1日 – 関東大震災。ニコライ堂のドームと鐘楼が崩落。
    1929年12月15日 – 府主教セルギイ(当時大主教)のもと、大聖堂の復興成り、成聖式挙行。外観は一部変更された。
    1945年8月10日 – 府主教セルギイ永眠。同じくロシア正教会を母教会とする姉妹教会であるアメリカの正教会から、日本正教会はアメリカ人主教を迎えるようになる。
    1962年3月 – 東京復活大聖堂、国の重要文化財に指定される。
    1970年4月10日 – 日本正教会、自治教会となる。大主教聖ニコライ、この年に列聖される。
    1972年 – フェオドシイ府主教、日本正教会の首座主教として着座。
    1974年10月5日 – 神田、南部、聖和、多摩、石神井の各教会が合併し、「中央教会」として発足。
    1978年2月19日 – 現在ニコライ堂の敷地内にある、亜使徒聖ニコライ列聖記念聖堂の成聖式挙行。
    1983年 – 「中央教会」が「東京復活大聖堂」と名を変えて現在に至る。
    1991年 – ソ連崩壊。旧共産主義諸国で正教会の復興が始まる。
    1998年 – ニコライ堂、国の重要文化財として補修工事を受ける。
    1999年 – フェオドシイ府主教、永眠。
    2000年 – ダニイル府主教、日本正教会の首座主教として着座。2019年- セラフィム大主教、東京の副主教に就任

 2023年8月- ダニイル府主教永眠

 2023年8月-セラフィム大主教、首座主教代理に就任

 

日本ハリストス正教会教団 東京復活大聖堂 公式サイト